
「SNSを見るな!」
なんて投稿をSNSで見たことない?(哲学)
- 「何言ってんだww」
- 「どこで言ってんだwww」
なんて思った経験。
多くの人があると思う。
まぁでも僕は、
この発言はあながち間違いではないと思う。
SNSを開くと誰かのキラキラが目に飛び込んでくる。
- 成功を収めた瞬間
- 美しい食事の写真
- 旅行の写真
小慣れた指の動きで画面をスクロールする。
そんな中で、
目が潰れそうなほど眩しい誰かの人生に指が止まる。
それを自分の現実と比較して、
「これに比べて自分の人生は...」と落ち込む。
こんな経験をしたことがある人は少なくないだろう。
そんな時は止まった指を呪いたくなる。
指を呪う人が増えないように、
- 「SNSなんて見るな」
- 「距離を取れ」
というアドバイスが飛び交うようになった。
確かに、画面から離れてみると心が軽くなる。
けれど、本当にそれが最適解だろか?
一生SNSを断つことができたとする。
それでも社会の仕組みや人とのつながりがある以上...
比較を避けて生きていくことは難しい。
一生比較しない為には、
無人島で自給自足生活するしか無さそうだ。
「比較」は人間の本能的な行動。
- 他者の存在を通じて自分を理解する。
- 未来に向けて成長したりする。
こういった行動の為の比較は必要。
つまり、比較自体は悪ではない。
比較の使い方が心を軽くも重くもするのだ。
忘れた頃にやってくる。
こんにちは。ナマケ者です。
僕自身はこれまでブログで、
「SNSと距離を取ることが大事だ」
とよく発信してきた。
「文脈を読んでくれれば伝わるだろう」
と考えていたが少し不親切だったかもしれない。ゴメンミ
距離を取ることはあくまで対処法。
本質的な問題解決にはつながらないのである。
今までの自分の発信を反省し、
今回もベッドの上からお届けする。
この記事では、
「比較は目的なのか? それとも手段なのか?」
という視点を軸に、SNSが僕たちの心にどのように影響を与えているのか?
これを掘り下げていこう。
そして、
- 比較は「毒」にも「薬」にもなる
- SNSと健全に付き合うための具体的な方法
なんかも、あなたと一緒に考えようと思う。
SNSを見て落ち込んだ経験があるのなら...
比較の仕方を少し変えるだけで、
その風景は大きく違って見えるかもしれない。
ナマケ者はキラキラ投稿しない。
僕のSNSは安心してみてね。
目次

第1章:SNS疲れの正体:比較本能と承認欲求の暴走
SNSを開くと必ず誰かの「キラキラ」と出会う。
- 友達の結婚報告
- 憧れの人のキャリア成功
- 知らない誰かの海外旅行の写真
スクロールする指は止まることを知らない。
指の軽さとは反比例し、
心はだんだんと重くなっていく。
なぜだろう?
その理由のひとつは、
「比較による劣等感」という心理の働きにある。

◾️比較は人間のDNAに刻まれた行動
心理学者レオン・フェスティンガー。
彼は1954年に「社会的比較理論」を提唱した。
人間は自分の能力や価値を測るとき、
他人と比較して自分の位置を確かめる──
という考え方だ。
バナナの長さを測りたいのに物差しがない。
だからトイレットペーパーの芯と比べる...
みたいな(?)

比較は本来、
生き延びるために必要な機能だった。
狩猟採集時代、
仲間よりも体力が劣っていれば、戦いや狩りに不利になる。
逆に優れていれば集団の中で重要な役割を担えた。
つまり「比較」は進化的にはサバイバルに役立つ仕組みだったのだ。
ところが、このメカニズムがSNSという環境に持ち込まれると...
状況は一変する。

◾️SNSで見える化される承認の危険
人間は誰しも「承認欲求」を持っている。
- 誰かに認められたい。
- 愛されたい。
- 価値があると思われたい。
これは人間関係を築き、
社会で協力して生きるための本能だ。
しかしSNSは、
承認欲求を刺激しすぎる構造を持っている。
一瞬で「いいね」が数えられ、
フォロワー数が公開される。
つまり承認が「数値化」される世界だ。
この仕組みは、脳にとって非常に中毒性が高い。

通知が光ると、
「自分が承認された」ヒャッホー
という快感が走る。ドーパミンドバドバ
けれど逆に、
思ったよりも「いいね」がつかなければ...
「自分には価値がない」シュンッ
と感じてしまう。
本来、承認欲求は、
「人との関係性」の中で満たされるべきものだ。
ところがSNSでは「数字」として可視化される。
この“見える化された評価”こそが、
心を苦しめる大きな要因になっている。

◾️SNSが心に与える影響の調査
近年の研究では、
SNSの利用が心に負の影響を与えることが数多く報告されている。
アメリカ心理学会の調査によれば、
SNSの利用時間が長いほど、抑うつ症状や不安傾向が強まる傾向があるという。
また、インスタグラム利用者を対象にした研究では、特に若い女性の自己肯定感が低下しやすいことが示された。

タイムラインに並んだ華やかな写真や加工された美しい姿と比較し、「自分は劣っている」と感じてしまうのだ。
「SNS疲れ」という言葉が広まったのも、
こうした心理的負担の増大が背景にある。
投稿しなければ仲間外れになりそうで不安。
でも投稿すれば「いいね」の数で一喜一憂する。
この矛盾した状態に多くの人が疲弊しているのだ。

◾️なぜ「SNSは毒」と言われるのか?
「SNSは毒だ!」キリッ
ここ数年このフレーズを目にすることが増えた。
これは単なる誇張ではない。
心理学や社会学の視点からも一定の根拠がある。
- 「比較本能」
- 「承認欲求」
SNSはこれらを同時に刺激し続ける構造を持っている。
例えるなら、
甘いジュースを無限に飲める装置を前に座らされているようなものだ(?)

一時的には快楽を感じても、
飲み続ければ体を壊してしまう。
同じようにSNSは、
「承認」という甘美な報酬を与える。
だが同時に、
「比較」という毒を流し込み、心を蝕んでいく。
そして僕たちは気づかぬうちに...
「自己価値=数字」という危うい構造に囚われてしまうのだ。

◾️SNSは毒にも薬にもなる
解決策は「SNSをやめること」なのか?
と思うかもしれないが...
そう単純な話ではない。
SNSは「人とのつながり」を生み出す大切なツールだ。
- 家族や友人と気軽に連絡を取れる。
- 遠く離れた人とも情報を共有できる。
つまりSNSは「毒」にも「薬」にもなりうる存在。

だからこそ大事なのは、
SNSとの付き合い方を見直すこと。
- 比較をどう扱うか?
- 数字にどう向き合うか?
この用法・用量こそが、
比較の「目的」と「手段」を分ける哲学となる。
次章では、
比較の種類を、紹介しようと思う。
実は比較は、目的としても手段としても使える。

第2章:比較の哲学「毒」と「薬」を分ける目的と手段
SNSの最大の落とし穴は、
「比較」を“目的化”してしまうことにある。
比較そのものは悪ではない。
問題は「何のために比較しているのか?」だ。
ここを理解していないと、
いつまで経っても毒を飲み続ける事になる。

◾️「比較を目的にする」とは?
比較を目的にするとき、
他人との優劣を決めること自体がゴールになる。
- 「他人よりも優れているかどうか」
- 「あの人に勝っているかどうか」
こうした基準が自分の価値を左右してしまう。
この思考法は一見すると、
モチベーションになりそうだ。
だが...
実際には心を削る。
なぜなら、
比較の世界には必ず「上」が存在するからだ。

たとえばフォロワー1000人を達成しても、
「でもあの人は1万人いる」
と素直に喜べない。
年収500万円を稼いでも、
「あの人は1000万円」
と自分の成長を認められない。
比較を“目的”にした途端に、
幸せのゴールテープを永遠に切れなくなる。
心理学的にいえばこれは承認欲求の負の側面だ。
承認欲求は、
人間関係を築くうえで必要な感情だ。
だが強くなりすぎると、
嫉妬や劣等感、さらには攻撃性に転化する。
- 「勝ちたい」
- 「負けたくない」
この思考はニーチェが警鐘を鳴らした、
「ルサンチマン(恨みや妬み)」の感情を生み出し、心を消耗させる。

◾️「比較を手段にする」とは?
一方で比較を“手段”として用いると、
まったく違う景色が見えてくる。
自分の現在の立ち位置を知り、
目標に近づくための地図として比較を活用するのだ。
マラソンで考えてみよう。
「前のランナーに負けない!」
と考えるのは比較を目的化している状態。
追い抜いても、また別のライバルが現れる。

「前のランナーのペースを参考にして、自分の走りを整えよう」
と捉えれば、それは手段になる。
この発想を僕は、
「ロードマップ思考」と呼んでいる。
自分のスタート地点とゴール地点を設定し、
その間に「給水ポイント」を置いて、どのくらい進んでいるか確認する。
比較はあくまで“地図を読むための道具”。
自分の旅を豊かにするための指標であるべきだ。
この方法は人生全般に応用できる。
- 仕事:先輩のやり方を参考にスキルアップ
- 学習:先輩の学習時間を参考に基準を作る
ロードマップ思考を使うと、
比較対象は「敵」ではなく「道標」に変わる。

◾️哲学的な視点:比較はツール
「頭の良し悪しは存在しない」
人はそれぞれ異なる能力や価値を持っている。
社会では学歴が高い人が、
「頭が良い」と判断される。
だが実は勉強だけでなく、
- スポーツをする。
- 絵を描く。
こういった行動にも脳は使われている。
だからこそ頭の良し悪しは、単純に序列化できるものではないという考えだ。

SNSでは「優劣の物差し」が作られる。
フォロワー数やいいね数は、
まるで偏差値のように人の価値を並べてしまう。
けれど本当は人間に一律の物差しなど存在しない。
ある分野で優れている人も、
別の分野ではポンコツかもしれない。
東氏の言葉は、
「比較は単なるツールに過ぎない」
という真理を思い出させてくれる。
東浩紀氏の紹介は過去に記事で⬇️

◾️比較を目的にした人の結末
僕の知り合いに、
常に他人と比べて疲れ果ててしまった人がいる。
SNSを開くたびに、
「またあの人が成果を出している」と落ち込む。
彼女を連れて来た友人がいると、
「俺への当てつけか!?」なんて本気で言っていた。
結局精神を病んでしまい、どこかに消えてしまった。
比較を目的にすると、
心を消耗させるだけだと分かる。

◾️比較を手段にした人の成長
一方で別の知り合いは、
「比較=教材」として活用している。
- 「この人の仕事法を真似してみよう」
- 「このお金持ちから考え方を学ぼう」
彼は自分の成長に比較を利用した。
結果的に入社数年で、
大きな企業の責任者を任せられるまでになっている。
- 比較を“目的”にした人は精神を病んだ。
- 比較を“手段”にした人はまだまだ成長していく。
同じ「比較」という行為なのに、
扱い方ひとつで未来が大きく変わる。

◾️「目的」か「手段」か選ぶのは自分
生きている以上、比較は避けられない。
ならば「目的」として使用せず、
「手段」として活かすほうがいい。
- 比較を目的にすれば毒になる。
- 比較を手段にすれば薬になる。
SNSのスクロールを、
どちらに転ばせるかは「使い方次第」だ。
あなたは比較をどう使う?
次章では、
比較が“毒”として働く典型パターンをさらに具体的に見ていこう。

第3章:比較が心を蝕む:「他人のハイライト」と毒の悪循環
比較は生きるために必要な道具だ。
しかし目的を「優劣の決定」に設定すると、薬は毒に変わる。
特にSNSの世界では、
この“毒化”が日常的に起きている。

◾️他人のハイライトとの比較
SNSを眺めていると、
誰かの人生が「完璧な物語」に見えてしまう。
- 海外旅行の写真。
- 高級レストランの料理。
- 仲間に囲まれて笑う姿。
「切り取られた一瞬」を、
僕たちは“人生の完成形”と誤解してしまう。

けれど冷静に考えれば、
SNSに映るのはハイライトシーンばかりだ。
- テストで赤点を取った瞬間。
- 上司に怒られて落ち込んだ夜。
- 布団から出られず一日を無駄にした日曜日。
そんな「裏側」は、ほとんど投稿されない。
つまり僕たちは、
「自分の今の現実」 vs 「他人のハイライト」という比較をしているのだ。
体重50kgの人が、体重150kgの相撲取りに相撲を挑むようなもの(?)
そんなん勝てるわけない。

◾️比較の爆撃を受け続ける現代
心理学的に言えばこれは「選択的注意」の罠だ。
僕たちは意識を向けた情報に必要以上に注目してしまう。
自分はSNSで「成功者」を探すつもりがない。
でも脳は勝手に「他人の成功」に注目する。
そして気づけば、
成功者と比較して落ち込んでしまう。
これは現代特有の比較の構造だ。

SNSが登場する前。
比較する対象は職場の同僚や同級生くらいだった。
だがSNSが当たり前になった現代では、
世界中の「ハイライト」が一気に目の前に差し出される。
24時間365日。年中無休。時給0円。
比較の爆撃を浴び続ける環境が出来上がっているのだ。
ハイライトのブラック企業や!つって。

◾️実例:SNS依存の社会的事件と調査結果
SNSの危険性を裏付ける調査結果は多い。
2021年にフェイスブック(現メタ)の内部資料がリークされた事件を知っているだろうか?
「インスタグラムは10代少女の自己肯定感を低下させ、うつ症状を悪化させている」
と社内の研究で報告されていたのだ。
それにもかかわらず、
リスクを十分伝えず、運営を続けていたことが大問題になった。

またアメリカの心理学会の調査では、
SNS利用時間が長いほど、うつ症状や不安感が高まる傾向が確認されている。
特に「他者との比較」を頻繁に行うユーザーほど、その悪影響は顕著だった。
「比較を目的にしたSNS利用」は、
社会的な健康問題にまで広がっている。
自己形成の時期にいる若者は、影響を受けやすい。
だからこそ親が注意してあげてほしい。

◾️比較の心理的悪循環
なぜ比較がここまで人を追い詰めるのか?
それは「心理的悪循環」が働くからだ。
まるでのどが渇いて海水を飲むようなものだ。
飲めば飲むほど渇きは強くなる。
比較に疲れた心はどんどん乾き、
やがて砂漠のように干からびてしまう。

◾️比較を目的にしたSNS利用の危険性
僕の知り合いにも、
この悪循環に陥った人がいた。
彼はいつもスマホを手放さない。
暇さえあればSNSを見る。
そして誰かの成功投稿を見るたびに、
「はぁ〜っ」とため息をついていた。
「金持ちに俺はなる!」
そんな夢を語る彼の目は、
ルフィーのように輝いて見えた。

彼の指は呪われたように、成功者のSNSをスクロールする。
毎日深夜まで呪いは続いていたようだ。
その結果、仕事で集中力を欠き、ミスを重ね...
自信を失って、最終的にどこかへ消えていった。
(彼が成功していることを願っている)
比較を目的化したSNS利用は、
ゆっくりと確実に精神を蝕む毒になる。

◾️目的になった比較は毒
SNSは他人のハイライトの押し売りである。
そこに"自分の日常”を重ね合わせれば...
劣等感が生まれるのは当然だ。
比較を目的にしたSNSは毒となり、
その毒は劣等感という形で心に広がり...
やがて悪循環を作り出す。
だからこそ僕たちは、
「どのように比較するか?」を見極めなければならない。
次章では、
逆に、比較が「薬」として作用する瞬間―
その可能性を探っていこう。

第4章:比較を好転の手段にするモデリング術
前章では「比較が毒になる瞬間」を見てきた。
しかし比較は必ずしも悪ではない。
「薬」として作用する場面もあるのだ。
問題は「比較を何のために使うのか?」ということ。
ここを押さえておけば、
SNSや周囲との関わりも、もっと健やかに変わっていく。
フェイスブックは嫌いになっても、
SNSのことは嫌いにならないでくださいっ!

◾️自分の成長を把握する比較
比較が役立つ典型的なパターン。
それは「自分の変化を確認するための比較」
例えば筋トレを始めた人が、
1年前の自分の写真と今の自分を見比べる。
「思ったより変わってない」
と落胆する事もあるかもしれない。
だが1年も筋トレを続ければ、
- 「前より姿勢がよくなった」
- 「体力がついた」
と自分の成長を実感できるはずだ。

他人ではなく「過去の自分」との比較。
この比較ができる人は、
承認欲求に振り回されずにモチベーションを保ちやすい。
SNSを「他人との優劣比べ」ではなく、
「自分の成長記録」として活用している人は成長する。
- 筋トレ
- ダイエット
- 学習記録
自分の頑張りをSNSに投稿すると、
過去と見比べ成長を実感できる。
これはまさに比較を「薬」として用いた好例だ。
自分の老いを直視する効果もある。

◾️学びを得て成長するための比較
もうひとつの効用は、
「モデルケースを見て未来を描く」
人間は完全な独学では成長し辛い。
できるだけ早く成長する為には、
目指す方向を示してくれる存在(ロールモデル)が必要だ。
- 作家志望なら先人の執筆習慣を真似する。
- 起業家なら先に成功した人の戦略を学ぶ。
これらは「比較を通じた学び」である。

「三人行えば必ず我が師あり」
これは孔子の言葉。
「三人で歩いていれば、
その中には必ず「学ぶべき点」を持った人がいる」
という意味だ。
つまり他人と比較してもいい。
だが比較は「誰かを超えるため」ではなく、
「何を学べるかを探す行為」だと解釈できる。
僕は他者から学びすぎて、
もう本当の自分が分からなくなってきている。

◾️成長速度を加速させた比較例
スポーツの世界では、
比較が薬になることは日常茶飯事だ。
トップアスリートは、
ライバルの存在によって自らを高める。
彼らはお互いを比較し合い、
刺激を受けることで、歴史に残る記録を打ち立ててきた。
アニメで言えばベジータは、
悟空と切磋琢磨することによって破壊神の力を扱うまで成長した。
比較を「嫉妬」ではなく「刺激」に変えると、
人間の成長速度は一気に加速する。

◾️誰とどう比較するかで未来が変わる
心理学の観点からも、
この効果は裏付けられている。
バンデューラの「社会的学習理論」の中で、
「モデリング効果」という概念がある。
簡単に言えば、
「他人の行動を観察し、模倣することで学習が促進される」というもの。
- 子どもが親の言葉遣いを真似する。
- 後輩が先輩の仕事の進め方を学ぶ。
どちらもモデリングだ。
「劣等感を生む材料」ではなく、
「学習の最短ルート」として比較を使用する。
つまり僕たちは、
- 「誰と比べるか?」
- 「どう比べるか?」
その視点次第で、
成長を止めることもあれば、成長を加速させることもできるのだ。

◾️まとめ:比較を「手段」にする
結局のところ、
比較は「毒」にも「薬」にもなり得る。
それは使い方の問題だ。
- 他人の華やかな瞬間
- 自分の現在
これを比べて落ち込むのは...
毒を飲んでいるのと同じ。ゴクゴクである。
薬を飲んで回復や成長につなげるには、
- 過去の自分
- 今の自分
これらを比べて進歩を実感するべき。

比較を「目的」にしてしまうと心が蝕まれる。
でも比較を「手段」にできれば、
自分の人生設計を助ける最強のツールになる。
尊敬できる人を参考に未来を描き、
何のために比べるのか?を明確にすることで心の舵取りを自分でできるようになる。
それこそSNS時代を生き抜き、
心をすり減らさず好転させるうえで必要なゆるい哲学なのだ。
次章(本文最終章)では、
実践的なSNSとの付き合い方を考えていこう。
現代でSNSを使わない選択は難しい。
だからどう付き合うかが大切だ。

第5章:SNSを「見る」「発信する」時の3つのルール
前章までで見てきたように、
比較は「毒」にも「薬」にもなる。
では僕たちはSNSとどう向き合えばいいのか?
行動レベルに落とした「3つのルール」を提示していこう。

◾️SNSを見る時の3つのルール
まずは「見る側」としての姿勢だ。
1. 比較の目的を“自分の成長”に切り替える
誰かの投稿を見たときに、
- 「すごいな」
- 「勝てない」
ではなく、
「この人から学べる点はどこだろう?」
という視点に変える。
目的を“勝ち負け”から、
“学び”にシフトするだけで、比較は毒から薬に変わる。

2. 攻撃的・刺激的なアカウントは即ミュート
SNSのタイムラインは心の食事だ。
辛辣な言葉や煽る投稿を毎日見ていたら、
精神が荒むのは当然だ。
刺激を求める気持ちは分かるが、
刺激物はお腹を壊す原因になる。
そんな生活を続けていると、
唐辛子ばかり食べないで、
心の為に健康的な情報を食べよう。

3. SNSの使用時間を制限する
「安全なナマケ者のSNSだけ見てろ!」
と言いたいが、現実的ではないだろう。
なのでアプリの「スクリーンタイム」機能を活用する。
1日30分など上限を決めてしまう。
えっ?もっと見たい?
...じゃあ1時間だけね。
ダラダラ眺めるのを防ぐだけで、
SNSとの距離感は驚くほど改善される。

◾️発信するときの3つのルール
次に「発信する側」としての心構え。
1. 承認ではなく「人のため」を意識する
- 「今日は焼肉食べにきたよっ!」
- 「アサイー食べて健康な自分!」
こんな投稿は今すぐ辞めてほしい。
承認自体は人間の当然の欲求ではある。
だが使い方を間違えると、
自分の心を追い詰める毒になってしまう。
ベクトルを自分ではなく他者に向けよう。
「誰かの為になっている」という感覚は、
心の健康を守る上で重要なものだ。
結局人の為になる投稿の方が伸びるしね。

2. SNSを“発信”ではなく“メモ”と考える
とある社長はXを、
「思考のメモ帳」として使っているという。
そのスタンスだと批判も気にならないし、
「伸びればラッキー」という軽さでいられる。
人の評価を気にしすぎるのは体に毒である。
発信を目的ではなく、
自分の目的の為の手段だと考えてほしい。
「メモしてたらいつの間にかフォロワー増えたな」
重く考えずに軽く楽しく発信しよう。
どうしても他者の評価が気になり過ぎるなら、
きっと発信するのは辞めた方がいい。

3. SNSは成長ログとして使う
- 学習記録
- 運動記録
- 読書メモ…
「昔の自分と比べてどれだけ進歩したか?」
その確認の為の発信だと割り切る。
他者と比較せず自分と向き合う。
そうする事で、心の健康も保たれ、
更に成長の意欲もどんどん湧いてくる。
これは最も健全なSNS活用法だ。
3つとも心を守る為のSNSの発信例だ。
自分の心に合った物を選び取ってほしい。

◾️ナマケ者流SNSとの距離感
「徹底的に効率化しよう」
なんて気負うとまたダラダラSNSを見る生活に逆戻りする。
だから僕はナマケ者流の付き合い方を勧める。
「疲れたら、ナマケ者のXとYouTubeだけ見ておけ。
そこに幸せホルモン(?)がある」
SNSは栄養バランスを考えた食事ではない。
たまには唐辛子を食べたっていい。
ポテチやアイスも食べればいい。
時々つまむ分には、人生を彩る。
ただSNSを主食にしたら栄養が偏る。
無理しない範囲で心の健康を守ってほしい。
唐辛子ばかり食べてちゃダメだよ?

◾️まとめ:SNSを“毒か薬か”決めるのは自分
SNSも比較もそのものは悪ではない。
「使い方」次第で毒にも薬にもなる。
-
比較を目的化して、他人と自分を勝ち負けで測るなら毒
-
学びや成長の手段として用いるなら薬
重要なのは「誰と何のために比べるか?」を意識すること。
どちらも整えれば心をすり減らすものではなく、人生を支えるツールになる。
ルールでツールになる。つって。
SNSに振り回されず使いこなし、
主導権を取り戻したとき、比較はようやく僕たちの味方になってくれるのだ。
これこそが、SNS時代のゆるい哲学だ。
あなたは比較を毒として使う?
それとも薬として使う?

あとがき:比較を辞めるな。ゆるい哲学で人生を好転
長々と「比較」について語ってきた。
もうお腹いっぱいになっただろう。
最後にもう一度伝えておきたい。
比較そのものは悪ではない。
- 目的として使えば毒になる。
- 手段として使えば薬になる。
SNSはナイフと同じだ。
- 料理に使えばおいしい食事を作れる。
- 乱暴に使えば人を傷つける。
道具自体には善悪はなく、
それを握る自分の心の向き次第で、結果は大きく変わるのだ。
僕はこの記事の中で、
「毒にも薬にもなる」という表現を繰り返し使った。
それはあなたに、
柔軟さを感じてほしかったからだ。
今この文章を読んでいるあなたは、
なにか悩みや不安を抱えているはず。
- お金のこと
- 人間関係のこと
あるいは「生きる意味」そのものかもしれない。
でも理解しておいてほしい。
あなたが「黒」にしか見えない事でも、
それを「白」だと感じる人もいる。
「灰色」「金色」「ピンク」
そんな風にさえ映るかもしれない。
世界の見え方はひとつじゃない。
「真実はいつもひとつ!」
なんてコナンは言うけど答えは一つじゃない事もある。
SNSを毒として受け取らず薬として飲み干す。
そうすれば、比較は自分を苦しめる呪いではなく...
明るい未来へ運んでくれる魔法になるはずだ。
今日の僕の比較は、
「唐揚げ」と「ハンバーグ」。
...両方食べることにした。
こうすれば比較なんて必要ない。
あなたの人生の選択も、
時には「どっちもあり」でいいんだ。
これが、僕なりのゆるい哲学。
「物事を一面から見る必要はない。
多面から見て、選びたいものを選べばいい。」
こんな記事もどうでしょう⬇️
※ナマケ者の声が流れるので注意してください👆
ここまで読んでくれて、ほんとうにありがとう。
ナマケ者は、今日もゆるく息してます。
☕ よろしければ、他の記事も読んでいってください。
きっと、今のあなたに寄り添う言葉があります。
気に入ってもらえたら、SNSや友達にそっとシェアしてもらえると嬉しいです。
無理せず、のんびりいきましょう。ではまた。
ナマケ者のことちょっと気になったら⬇️